4.木曽街道:善師野宿
木曽街道は北上を続けます。田縣(たがた)神社が見えてきます。 穀豊穣・万物育成の神である御歳神(みとしのかみ)と子宝・安産の神である玉姫命(たまひめのみこと)が祀れています。
毎年3月15日に行われる豊年祭は奇祭として知られ、大男茎形を厄男逹が御輿に担いで行列をなすことで内外に有名です。 ちょうど拝殿にその御神輿が飾ってありました。
木曽街道からすこし離れた場所には楽田城跡があります。
楽田城は日本で初めて天守閣が設置されたお城だとされています。 小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉の居城となりました。現在では小学校になっており、往時を偲ばせる物はほとんどありません。
楽田城
楽田城は、織田久長により永正年間(1504〜1521)に築城されたと伝えられます。 戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、楽田城が奇襲を受けた永禄元年(1558)の様子が書かれています。 この時、城中に高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷きの二階座敷を設けたとあります。 天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。(犬山市教育委員会)
犬山市に向かう稲置街道との追分です。
垣根に隠れている道標には「左 三光神社」「右 善光寺」と刻まれています。
この追分を左に進むと尾張徳川家の家老であった成瀬氏の居城・犬山城に至ります。木曽街道は右に進みます。
名古屋城清水御門から5里(およそ20km)の地点です。昔は一里塚があったようです。
楽田を過ぎると、しばらくの間は田園風景の中を歩きます。
ところで、木曽街道ではお地蔵様に道標が刻まれているものをよく見かけます。
お地蔵様の左側には、「左・ぜんじの」「右・いまい」と刻まれています。
行く手には木曽街道で唯一の峠越えとなる石拾い峠が見えてきます。石拾い峠の手前が次の宿場町となる善師野宿です。
名鉄広見線が見えてきたら、善師野宿はもうすぐです。
名鉄広見線の線路を渡ると善師野宿に到着です。
石拾い峠を目前に控えた宿場町ですが、現在では静かな街並みとなっています。
善師野宿は江戸時代から小さな宿場町だったようで、『濃州徇行記』では善師野宿について、「駅停ナレトモ旅舎モナク貧村」と記載されています。
善師野宿の概要が描かれた地図が設置されています。 善師野宿について書かれた書物はあまり本屋さんに置かれていませんが、この図を見ながら善師野宿を散策することができます。
善師野宿の街並みです。街道沿いには常夜灯が残されています。
善師野宿本陣跡です。
案内板などは一切設置されておらず、気付かずに素通りしてしまいそうです。
善師野宿は小さな宿場町なので、あっという間に通り過ぎてしまいます。
宿場町を過ぎると、木曽街道は舗装道路から砂利道となってしまいます。。
砂利道を少し進むと、一里塚跡があります。
「左 犬山及小牧宿へ三里」
「右 土田宿へ二里」
と刻まれています。
ここから木曽街道で唯一の難所となる石拾い峠越えが始まります。